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2005年 03月 09日
STRATUS;
STRATUS; Simulation, Training and Technology Utilization System この施設はBrigham & Women's Hospital, Emergency Deptのトレーニングセンターです。 マネキンを用いたトレーニング(ICLSとかACLSなど)をイメージすると、シュミレーション教育の本当の価値は理解できないと思います。 既存の用語を用いれば、ここで行われているシュミレーション教育は、「スキルステーション+PBL+総合学習(知識、技能、態度を同時に学べるという意味)+反復的実践家+ドラマ」。 もし貴方が旅行を計画していて飛行機会社を選ばなくてはならないとします。 A航空会社の売りは「当社ではきちんとした講義でパイロットを育成しています。初めてのフライトですがご心配なく!」 B航空会社の売りは「当社でシュミレーション教育によりパイロットを育成しています。パイロットは危機的状況でどのように行動すればよいのかをシュミレーションにより習得しています。貴方のフライトの安全を保障します」 僕ならB航空会社を選びます。パイロットが初のフライトでも。 上記のことは医療にも当てはまります。 シュミレーションにより医師も患者も安心して医療に参加できるようになると思います。 #
by well-be
| 2005-03-09 13:16
2005年 03月 08日
昨日からボストンに来ています。
もうすぐしたら、ブリガム&ウィミンズ病院のシュミレーションセンター(STRATUS)を見学です。 ERを模した病室にシュミレーターがあり、救急医療のトレーニングができる・・・その程度の前知識しかありません。実際に見学すると、いろいろ考えるのでしょうが、いまはのんびりしています。日ごろが忙しいもので。 この後、ピッツバーグで別のシュミレーション施設を見学し、それからホノルルで心肺蘇生法のトレーニングです。 仕事のような、リフレッシュのような旅行ですが、楽しんでいます。 人間、充電もしなければいい仕事はできませんから #
by well-be
| 2005-03-08 02:11
2005年 02月 18日
今日は学会(全国QCサークル大会)で発表するために福岡に来ています。
空港から会場に直行し自分の発表を済ませ、3つの発表を聴きました。なかなか有意義な発表で、大きなヒントをもらいました。 その後、西新でラーメンを食べ(Wラーメンで汗だくになりました)、キャナルシティへ。 前もって調べていた映画「北の零年」を観るためです。 ちょっと時間があったので、カフェでチョコソフトを食べながら、しばし沈思黙考。 いよいよ映画が始まりました。 平日の午後2時ですからガラガラと思いきや、僕より年配のおばさんで結構一杯でした。 大抵、2-4人連れで、予告編を見ながらコメントの多いこと多いこと。 映画は感動物で、僕も含めて皆泣いてました(ここで泣け、というところでは必ず泣いてました)。 映画館で観る映画は格別ですね。お涙頂戴もこれがストレス解消にいいんです。映画の効用は、思いっきり泣けることって読んだことがありますけど、その通りです。 長い映画で見所も多かったんですけど、ラストあたりになると前の方はよく覚えていません。でも、新たに感動して泣いてしまいます。 で、結局、ラストで吉永小百合が大地に鍬を入れながらつぶやく台詞が、この映画のメッセージになっていました。すでによく覚えていませんが「生きていれば、誰かが助けてくれる・・・」「そしていいことが起こる・・・」のような感じでしたが、僕の記憶には、「とにかく前向きに生きていれば、人生報われる」と刻まれました。僕の信条を再確認した次第です。その後に皆でそろって大地に鍬を入れ始めるのはちょっと見てて恥ずかしかったんですけど(そういう心境じゃないと思うので)、ま、映画的で許せます。 吉永小百合は元夫に捨てられるわけですが、代わりに元会津藩士が純愛を体で示し小百合様を受け止めて、小百合様もこの男子を受け止めます。ここで予想通り、おば様たちの号泣が始まりました。これが韓国ドラマを支えているんだ、って実感しました。 ま、それはともかく、このラストのラストシーンは「キャスト・アウエイ」そのものですね。観ていて救われました。映画は後味が良くなくっちゃ。 ちょっと話は変わりますが、僕の長男の名前は「拓」なんです。開拓の「拓」。 この名前をつけた心情は、ラストで小百合様が大地に鍬をいれ、鍬を起こして土を耕すシーンに表現されています。ああいうふうに、世の中を耕して欲しい・・・ 次に思ったのが「地の塩」っていう言葉です。僕はキリスト教ではありませんが、この世の中を見れば、「地の塩」が必要なことは明らかです。僕もそうなりたいし、息子たちにもそう期待しています。 そんな事を考えながら、ビールを飲みながらワープロを打っています。 いい気分ですね。 こういうのがリフレッシュです。 夜はお寿司を食べ、デザートにラーメンを食べ、空港で買った文藝春秋でも読みながらたっぷり寝ることにします。 #
by well-be
| 2005-02-18 19:54
2005年 02月 17日
今日は全国知事会の会長が選挙で選出されたことが話題に上りました。
これからは国は地方に権限を委譲し、そのかわり補助金を減額するという政策を打ち出してくるでしょう。 これまで、厚労省は、救急医療は国民の基本的な存在を保証するものであり、行政が最後まで係わる医療分野だといってきました。これを裏返せば、救急以外の分野は競争原理によって淘汰されるだろうし、それはそれで結構だという考え方があることが分かります。 確かに救急医療は基本的な行政サービスであり、これをないがしろにしてもらっては困りますし、そういう考えの市町村には住みたくありませんね(でもそういう情報はどこにあるのでしょうか・・・ご存知ですか?)。 日本救急医学会と厚労省医政局指導課(救急医療担当)は関係がよく、毎年学会では指導課の職員と全国救命救急センター長の直接のミーティングがあり、そこで厚労省の方針がセンター長に説明されるという仕組みがあります。 このミーティングでは、お互いに救急医療を良く知り抜いている同僚として意見交換が行われています。 問題は、厚労省→都道府県→市町村と行政が末端に行くほど、救急医療についての理解と知識が薄弱になる点です。実際に救命救急センターが日常的にコンタクトするのは市町村ですが、このレベルになると厚労省の真意はあまり伝わっていないようで、それ以前に救急医療に対する温度差の大きさに驚きます(もちろん市町村が低いのですが)。だから厚労省も救急医学会も心配になるのです。三位一体の改革によって救急医療サービスの質が低下しないかと。 さて、三位一体の改革ですが・・・ 厚労省の心配は、救急医療行政を地方に委譲した場合、厚労省のようなレベルの仕事ができるか?ということです。ま、上級役人的な考え方といえるかもしれませんが、実態を知っている僕たちからすると、実際とても心配になってしまいます。 でも、三位一体の改革は進んでいきます。総論はOKでも、救急医療サービスは結果的に改悪になる可能性は少なくないでしょう。 それを食い止め、救急医療サービスの質を向上し、安心して住める環境を確保するにはどうすればいいでしょうか? 僕は、地域住民がもしものときに受ける救急医療サービスにもっと関心を持たないのであれば、知らない間に改悪されてもそれはそれで仕方のないことだと思います。 僕が体験から学んだことは、行政は一つということで、最終的には一つの組織として自己完結(自己評価)的に仕事を小さくまとめる傾向があるということです。毎年決まった仕事をするのは得意でも、新しい仕事を工夫しながら創造的にこなすのは苦手でしょう(そうは認めないですが)。役所はトヨタ、ソニー、ホンダという組織とは違うんです。もともと。何が言いたいかといえば、民間では常識になっているTotal Quality Management (TQM)の基本である「顧客満足度が最優先」という視点は、行政にはないということです(知識としてはあるでしょうけど)。行政組織的な整合性がもっとも重要なようです。 ところで、行政にとって最も扱いやすいのは声を上げない市民であり、行政が最も気にかけるのは声を上げる市民の存在でしょう。 ここまで書けば、僕が何を考えているのかお分かりになるでしょう。 三位一体の改革が救急医療に及ぶ前に、市民が自分たちが受けるだろう救急医療に関心を持ち、市民の視点から救急医療サービスのあるべき姿を行政に訴えること。これが救急医療を守る基本的な戦略と考えます。 ということでNPOの役割がみえてくるのではないでしょうか? #
by well-be
| 2005-02-17 20:21
2005年 02月 16日
「教養の再生のために-危機の時代の想像力」加藤周一他、影書房 先週、本屋に立ち寄ったら、この本が僕を読んでいました。 この本を買ったのは、「教養」、「危機の時代」、「想像力」、「加藤周一」というキーワードが僕に強く訴えたためでしょう。 読んだ感想は、今の僕の問題意識に多くの示唆を与えてくれたということにつきます。 その中でもキーコンセプトは、「救急医療・救急医学は、医療・医学の教養に相当する」ということです。 ちょっと説明してみます。 その前に、編者たちのテーマは、「この危機の時代に求められている教養とはいかなるものか?」、「共生を可能とするための教養を身につけること」ということで、医療の分野にも当てはまるテーマだと思います。 この本の中で僕が共感した教養の定義は、 「リベラル・アーツはフリーマン=自由人に相応しい学芸や学問」ということ。 (リベラル・アーツ:教養) 「全般的な知性の拡充と洗練をめざし、技術的もしくは専門的訓練のための必要に狭く限定されない」、そしてもっと大事なことは、「奴隷的もしくは機械的な技術」に対置される概念であるということ(18-19ページから引用)。 さらに印象に残る部分を引用すると、 ・・・リベラル・アーツというのは、ようするに機械的・奴隷的である状態からリベラルである(自由である)ために必要とされる考え方をいい、それを獲得するには、みずからの自由を育成する必要があり、そのための学習を教養という・・・(一部改変) 自由であること、すなわち「独立した自由な人格」とは、さまざまな物事を自分自身の知識や判断力で判断することのできる人、ということ。 一方、奴隷的・機械的な技術に縛りつけられている人は、たとえば「こういうことのために、こういうものを生産しなさい」と命じられたとき、その目標設定そのものに対して自分自身の判断をさし挟むことができない、さし挟む自由を奪われているのです。 ここで僕は「医師=自由な個人」という図式を形成しています。 自由な個人となるためには、そのようなある特定の目的に縛り付けられないリベラルな学問というものが必要なんだ、そしてそれが「みずからの自由を育成する」。つまりこれは、人間はそのような自分自身を自由にする能力を本来そなえているのだけれども、それは掘り返して育てなければ芽を出すことができない、ということでもあります。 僕は、上記の「教養」あるいは「リベラル・アーツ」を「救急医療・救急医学」に置き換えることができると考えました。現代の臓器別医療・専門医学という文脈において。 このように考えることによって、僕自身と救急医学の中で育った先輩たちの人生の選択がより理解できるようになりました。 臨床研修においても大事な視点と確信していますが、まだうまく説明できる状態ではありません・・・ #
by well-be
| 2005-02-16 13:47
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